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夢十夜:夏目漱石

小説の感想ならメインの方に書くべきかもしれないけれど、純文学がどうのこうのというエントリはこちらに書いたことだし、感想もこちらに書いておく。

2006年03月09日 Hebi 『[読書]具体的に何をさして「純文学」と呼んでいるのかよく分からないけど、押しつけがましくないものが読みたいといわれて薦めるのは堀江敏幸『雪沼とその周辺』とか川端康成『掌の小説』とか漱石『夢十夜』あたりかなぁ…』

とのオススメがあって、漱石なら実家に揃っているので、夢十夜を読んでみようと思った。長すぎない、いい感じの長さだし。あと、『きみとぼくの壊れた世界』に『夢十夜』に言及している箇所があって、それで興味を持っていたというのもある。


たしかに「押し付けがましくないもの」だった。それだけに、読んで感じるものも特になかった。ただ夢を書き記しただけのように思える。他人の夢を聞かされました、以上の感想を書けない。そこに美しさは感じなかった。んー、第六夜がなんとなく面白かったかな。


ただ、これの解釈を巡って意見を戦わせると楽しいかもしれないと思った。例えば、第一夜の「自分」は結局すっぽかされたのか否か、とか。まさしく「夢」分析みたいで面白い。しかし、それは「小説」の読み方じゃない。


この小説は、漱石の夢をただ書き記しただけなのか、夢を書き記すというコンセプトでフィクションを書いているのか。おそらく後者と思うが、完全には読み取れない。この小説が書かれた背景を知らなければ、この小説を理解することはできない気がする。その背景をもっと知りたいと思ったが、それは文学者の領分だろう。背景を知らなければ理解できない小説というのは、「作品」としてどうなのかとも思うが、それとも理解させようなんて考えていないのか。あー、純文学ってこうなると哲学か心理学みたいになってくるよなぁ。頭が痛い。


と、ここまで書くと、我ながらこの前のエントリと矛盾しているようにも思える。「心に何も残さないもの」を読みたいなら、「夢を書き記しただけのもの」はまさにそのものじゃないか、と。
んー、どうなんだろう。たとえば、朝顔の観察日記が小説にはなりえないように、夢を書き記しただけでは小説に思えないんじゃないかな。読者の心を変えなくてもいい、なにかを残さなくてもいい。ただ、それを読んでいるあいだ、読者が「美しいなぁ」とか「楽しいなぁ」とか思えなければ、小説じゃないんじゃないかと…。
うひゃ、支離滅裂。


見事に「夢」を表現した文章は、流石だと思う。
「漱石」だけに「流石」ってか。