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作品を分割することに意義はあるか

後天性無気力症候群-イラストが先なのか文章が先なのか

スレイヤーズ」を初めとする富士見ファンタジア文庫の長編+短編作品の持つ重要性を言いたいためです。

これについてなんだけど。


キャラ/キャラクター論なんかは頭のいい人に任せておく。
あの長編・短編分割形式は好きじゃないという話。
なぜか。単純に、つまらない場合が多いからだ。そもそも、一人の作家にシリアスな長編もコミカルな短編も書かせようというのに無理がある。中には賀東招二のように両方をハイレベルにこなす作家もいるが、たいていは「一方(例えば長編)は面白いが、もう一方(短編)はつまらない」ということになってしまっている。


こういった問題は富士見に限らない。
というか、最近のスニーカー文庫の方があからさまにひどい。
具体的にはこうだ。
作品を読んでいると、読者の知らないキャラクターが、あたかも既に知られたキャラクターであるかのように登場する。どういうことかと調べてみれば、そのキャラは実は雑誌に掲載された短編に登場しているのだ。つまり、雑誌掲載分を読んでいないと長編を理解できないということになる。
酷いものには、第二巻でいきなりメインキャラクターが増えていたケースもある。どうやら重要なキャラクターであるようなのに、そのキャラが何者なのかさっぱりわからないのだ。それも、雑誌に掲載された短編に登場していたキャラクターだった。
…スニーカー編集部は抱き合わせ商法でもやりたいのだろうか。


雑誌で連載するなら、雑誌だけで完結させればいい。例えば『イリヤの空、UFOの夏』のように。必ず長編と短編に分けねばならないなんてこともないし、ましてや二つを無理に連動させる必要はまったくない。やるにしても、「長編単体でも楽しめますが、短編も併せて読めばもっと楽しめますよ」程度にとどめるのが普通だ。くれぐれも、短編が長編の蛇足となったり、あるいは長編が短編の蛇足にならないようにして欲しい。