俺の場合、そういった「文章から映像への変換」が全くできない。イメージがあることはあるのだが、いかにも端っこに「※写真はイメージです」と書かれていそうなものしかない。躍動感溢れる戦闘シーンを脳内で再生することなんてさっぱりできない。ライトノベルなら挿絵がついているが、それでもせいぜい、セリフを読むときに挿絵に描かれた人物の顔を思い浮かべるくらい。そういうわけで、たぶん小説読みの中には文章から映像への変換ができる人とできない人がいるのだろうと思う。まあ、それはそれとして。
2chのコピペにこういうのがある。
「本読み」という人種は 「Text→Image」Generator(生成回路)を脳内に形成している場合が多い。
即ち「最高の美少女」という文字を認識した瞬間に自分にとっての最高の美少女がImagingされる。
「正装して踊る1000人のパプアニューギニア・フリ族」と書かれただけで、その知識さえあれば
ゴクラクチョウの羽を飾り、顔面を黄色や赤の染料で化粧したフリ族がクンドゥーのリズムに乗って
踊り狂う様が脳内に現れるのだ。
Generatorの能力が高ければ高いほど、物語への没入が深くなり、元から画像情報として与え
られている漫画や映画以上の臨場感を読み手は享受することが可能となる。
ライトノベルの場合、イラストはそのImageを強化する手がかりとなりうる。「本読み」初心者にとって
イラストはGeneratorをBootするための、補助Fileとなっているのだ。
また、「本読み」熟練者にとっても、イラストが良好なものであった場合は、そのイラストで
Imageを補強させることにより、臨場感を高められるという利点もある。
(良好でないイラストによる不利益も多々あるのだが)
問題は、Generatorの生成・精度向上にかなりの年月と手間がかかるという点である。
手間を惜しんで、安易な画像エンターテイメントに嗜好を向けてしまうのが昨今の風潮だ。
こういう現状を踏まえ、ライトノベルはImage Generator生成術入門としての意味もあるのだ。
まとめ
1.文字情報は「本読み」にとり、生成される脳内ImageのSourceであり、圧縮fileである。
2.脳内Image-Generatorの精度向上により、漫画・映画以上の臨場感が得られる。
3.イラストはImage-Generatorの補助Fileである。
4.イラストの多いライトノベルはImage-Generator生成術入門としても意味がある。
これはまさしく「文章→映像変換回路」を持っている人の言い分だろう。もし、全ての小説読みが変換回路を持っていて、文章を映像に変換して読むのが小説の正しい読み方だというなら、このコピペは当を得た内容だと言えるかもしれない。しかし実際には、別に「回路」を持っていなくても困らないし、「回路」を持たない側の人間である俺としては、「文章を文章のままダイレクトに味わえる俺らが最強!」とか言ってみてもいい。言わなくてもいいが。
では、なぜ持っている人と持っていない人がいるのだろう、と考えてみる。俺の場合、子どもの頃にアニメやドラマや映画をロクに観れなくて、小説ばっかり読んでいたから「回路」ができなかったのかな、と思ったりする。まったく確証は無い。このあたり他人の意見を聞いてみたい。
ライトノベルにおける優れた描写といえば、個人的には『銀盤カレイドスコープ』のスケートシーンを挙げるが、なんとかスピン!とか言われたってどんな技かわからないわけで、やっぱり映像には変換されない。あれは文章を映像に変換することなく臨場感を表現しているから凄いと思うのである。
極論、挿絵さえあれば人物の外見描写なんていらないんじゃないかと思う。電子ブックが普及してライトノベルの挿絵が動画になったりすると、スケートシーンの描写とかもいらないと感じるようになるんだろうか。アクションシーンは動画で、人物の外見描写はイラストで、内面描写は小説で、とかそんな感じの役割分担。そうやってメディアを統合したら面白いかもしれない。それなんてエロゲ?
先日の米澤穂信講演会で、米澤穂信が「挿絵を使ったトリック」について語っていた。それで思うのだが、たとえば「ヒロインが黒髪であること」がトリックを暴くための手がかりになっているときに、文章中では一切ヒロインの髪の色を示さず、挿絵でのみ黒髪であることを明かしていた場合、これはアンフェアなトリックになるのだろうか。