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WINDBIRD

ライトノベルネタブログ

身体欠如と萌えと物語と妄想とデュラハン


身体欠如少女の憂鬱〜サイボーグ化できない少女達〜 - たまごまごごはん
を読んで考えたことメモ。


なぜ身体欠如少女に萌えるのか。


そこに物語を想起するからではないか、と思った。身体が欠如した少女のイラストは、さまざまな想像をかきたてる。どうして欠如しているのか、どんな人生を送ってきたのか、彼女自身はそれをどう思っているのか。そうやって物語を考えるのが、妄想するのが、とても気持ちいいのではないか。


たとえば「エロ」いだけのイラストを見ても萌えないのは、ただの「エロ」では物語が想起されないからだ。萌えるイラストと萌えないイラストの違いは、物語を想起させるかしないかなんじゃないか。妄想の快楽っていうのかな。物語を想像するのって気持ちいい。黒歴史ノートにしろ、邪気眼にしろ、誰にでも経験はあるはず。


つまり「萌え」とは、物語の想起、妄想の快楽なのではないか、ということ。


たくさんの物語に触れていて、「ストーリーのデータベース」を脳に構築している人ほど、イラストから物語を想像することができる。たとえば金髪ツインテールの勝気そうな少女のイラストを見れば、俺は即座に「ツンデレ」の物語を想像して萌えるだろうけど、ツンデレを知らない人はツンデレを想像しない。だから非オタが金髪ツインテール少女のイラストに萌えないのは当然だと言える。


この考えは東浩紀のなんたらかんたらいう話に近いと思うんだけど、詳しくは知らないので詳しく知っている人にお任せします。


ところが、妄想の快楽には耐性傾向があって、最初は小さな物語で満足していたのが、次第に刺激的で背徳的で異常な物語を志向するようになる。ただの「ツンデレ」じゃ物足りなくなって、「ヤンデレ」を求めるようになる。そうやって、鬱展開や、近親相姦や、身体欠如少女を求めるようになる。…んじゃないかな。


個人的には、身体欠如少女は弱者だから云々とか、そういう類の論は嫌いです。実際にそうなのだとしても、そうは思いたくないです。だから、上記の文章は単なる自己擁護かもしれません。鵜呑みにしないでくださいね。


余談ですが、ライトノベルには最強の身体欠如少女たる『セルティ・ストゥルルソン』がいるので、気になる方は成田良悟の『デュラララ!!』シリーズを読むといいです。首から上がまるごと欠如している少女です。あれ、少女だったっけ。北欧の妖精なので少女ではないかもしれません。「人は顔がないヒロインにも萌えるのだ」ということを証明してくれたキャラクターです。おすすめ。


デュラララ!! (電撃文庫)

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