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もうラノベのこと「キャラクター小説」って言うのやめない?

はじめに

「キャラクター小説」。ライトノベルを説明するときによく使われる言葉ですが、例によって定義は曖昧です。そこで「キャラクター小説」の初期の定義を確認し、そこからどのように用法が派生していったかを探り、そして「もう使わんほうがいいんじゃね?」という結論に持っていく、というのがこの記事の主旨となります。

そもそも「キャラクター小説」という言葉がよく知られるようになったのは大塚英志『キャラクター小説の作り方』からだと思うので、そこでの「キャラクター小説」の説明を最初に引用します。

ただし、大前提として『キャラクター小説の作り方』が刊行されたのは2003年(というか2000年からザ・スニーカーで連載されたコラムをまとめたもの)であり、『ハルヒ』ブームなどを経てライトノベルが急拡大していく直前、まだ「ライトノベル」が未成熟でどのように発展していくかわからない、「ライトノベル」という呼称すら十分に広まっていない時期に書かれたものである、ということに注意してください。


『キャラクター小説の作り方』における用法

大塚英志は「キャラクター小説」についてこう説明しています。

実は、この「キャラクター小説」というのは「スニーカー文庫のような小説」の関係者がたまに口にする隠語なのです。そこには、所詮これってキャラクター商品じゃんという編集者たちの屈折した気持ちが見え隠れします。アニメ絵のついたテレカとか下敷きと同じものでしかない小説、という意味で使われているのです。

ライトノベル」という呼称がまだ使えないので「スニーカー文庫のような小説」と迂遠な呼び方をしているのが面白いところですが、ともあれ当時の業界における「キャラクター小説」とは「キャラクター商品としての小説」の意味だったというのです。

「メディアミックスの起点となる小説」と言い換えればマシに聞こえますが、当時はまだ現在ほどライトノベルの立ち位置が確立されていたわけではないので、もっと「アニメに従属した商品」といったニュアンスがあるんじゃないかと思います。ドラゴンボールのオモチャを製造するように、ガンダムのプラモデルを発売するように、アニメみたいな小説を作っている。そういうような意味合いだったということでしょう。

その上で、大塚英志自身は「キャラクター小説」をこのように再定義します。

自然主義の立場に立って「私」という存在を描写する「私小説」が日本の近代小説の一方の極だとすれば、まんが的な非リアリズムによってキャラクターを描いていく「スニーカー文庫のような小説」は「キャラクター小説」と呼ぶのが多分、その小説の本質をもっとも正確に表現しているのだと思います。

噛み砕いて説明すれば「現実の人物を写生する小説=純文学」「漫画やアニメのキャラクターを写生する小説=ライトノベルという対置なんですね。純文学は(たとえ登場人物や作品設定が架空であったとしても)現実世界の在り方に従って書かれることがよしとされるが、ライトノベルは現実世界ではなく「漫画やアニメの世界」の在り方にもとづいて書かれているのだ、というような話でしょうか。

ちなみに、このあと大塚英志「純文学だって実はキャラクター小説じゃね?」とか「キャラクター小説で現実を表現するという新しい形のブンガクを目指すべきじゃね?」などといったちゃぶ台返し的な話をしています。新装版(2013年)で加筆された部分では「ライトノベルは俺の期待していた方向には進まなかったね」という話もしています。

要するに、大塚英志のこの「キャラクター小説」の定義は、理念先行というか、さまざまな前提や条件にもとづく話であって、必ずしも実像をスパッと表したものではないということです。「ライトノベルを本質的に特徴づけるものはキャラクターだ」といったような話ではないし、それどころか「ライトノベルと純文学の違い」を説明したものですらなかったわけです。

それ以降の用法

さて、ではこれ以降の「キャラクター小説」という用語はどのように使われていったのでしょうか。

たとえば、かの悪名高いライトノベル法研究所ではこのように説明されています。

ライトノベルは別名、キャラクター小説などとも呼ばれ、魅力的なキャラクターを創造できるか否かが、作品の評価を大きく左右します。

キャラクターの作り方(ライトノベル)

「キャラクター小説=キャラクターが魅力的な小説」というだけになってしまっていますね。「キャラクター小説というからにはキャラクターが重要なのだろう」くらいで思考停止してしまっているわけです。

この説明では『キャラクター小説の作り方』における「漫画やアニメの世界の在り方にもとづくキャラクター」という前提が抜け落ちています。なので「登場人物が魅力的な小説です」と言っているのと変わらない。じゃあキャラクター小説以外は「登場人物が魅力的でない小説」なんでしょうか。そんなの目指して小説を書く人なんているんですか。何の説明にもなっていないと思うんですよね。

類似表現に「ライトノベルは読みやすい文章で書かれている」などがあります。「ライトノベルは読みやすい文章で書かれている」と主張することでいったい何が説明できているんでしょうか。たいていの小説家は読みやすさを心がけているでしょうに。それはやはり「ライトノベルというからには文章がライトなのだろう」とかそういう思考停止にもとづいているだけなんですね。

話が脱線しました。

「キャラクター小説とはキャラクターが魅力的な小説のことである」という定義は出版社も用いています。

たとえばKADOKAWAは、そのものズバリ「角川文庫キャラクター小説大賞」という新人賞を設立しており、このように説明しています。

角川文庫キャラクター文芸は、一般文芸レーベル「角川文庫」の中で、魅力的なキャラクターが活躍するエンタメ小説を世に送り出してきました。

ミステリ、ファンタジー、ホラー、SF、あやかし、青春、恋愛、お仕事小説、感動の人間ドラマなど、あらゆるジャンルを横断する、優れたエンタテインメント作品の数々。そこに共通するのは、魅力的なキャラクターと舞台設定です。

角川文庫キャラクター小説大賞 | KADOKAWA

こちらの受賞作を見てみると、これがいわゆる「ライト文芸(キャラ文芸)」系の新人賞であることがわかります。この「キャラクター小説」を「ライト文芸(キャラ文芸)」の単なる言い換えとする用法が、近年では急速に広まっているんですよね。

そして、その用法を推進しているメディアのひとつが、やはりKADOKAWA系であるダ・ヴィンチなんですね。

“キャラクター小説”というジャンルを知っているだろうか。かつては“ライトノベル”と同義だったが、今、一般文芸作品にライトノベルの手法をうまく盛り込んでキャラクターを立たせた“キャラ立ち小説”が読者を強くひきつけているのだ。

ラノベとも違う! 今人気の“キャラ立ち小説”とは? | ダ・ヴィンチWeb

この記事は「ライト文芸」「キャラ文芸」といった呼称が登場する前の2012年に書かれた記事なので「キャラ立ち小説」とかいう微妙な呼称が使われていたりします。ともあれ、キャラクター小説を「キャラが立っている小説」と見なし、それを「ライトノベル」とイコールとした上で、そうしたライトノベルの手法が一般文芸に導入されつつある、としたわけですね。

出版不況が叫ばれる中で、出版各社が競い参入しているのが「ライト文芸」「キャラ文芸」と呼ばれるジャンルだ。イラストを用いたカバーデザイン、マンガ的なキャラクター設定が特徴とされるが、じゃあラノベと一体何が違うのか!? 一般文芸はどうなってしまうのか!? オレンジ文庫MFブックスなど、いま注目を集めているレーベルの仕掛け人たちに直撃し、ウケる作品作りの裏側に迫った。

特集「キャラクター小説」 | ダ・ヴィンチWeb

こちらは「ライト文芸」「キャラ文芸」といった呼称が登場したあとの2015年に、「特集 キャラクター小説」と銘打ったもので、そのキャラクター小説を「マンガ的なキャラクター設定が特徴とされる」と説明しています。

どうも「キャラクターが魅力的である」と「キャラクターが立っている」と「キャラクターがマンガ的である」がやんわりとイコールで結ばれているような気がします。

「キャラノベ」人気が高まっている。「キャラノベ」とは、エンターテインメント小説のなかでも、読みやすい文体や言葉遣いで書かれ、舞台や人物がマンガ的に誇張されている作品のこと。

マンガのような主人公が活躍、「キャラノベ」が人気のワケ - 日本経済新聞

こちらは日経エンタテインメント!の2012年の記事。「マンガ的」=「誇張」と説明されていますね。「キャラノベ」というのは「ライト文芸」という呼称が登場するまでに一瞬だけ定着しかけていた呼称です。

時系列が前後しますが、こちらは2008年の記事。

――まず最初にお聞きしたいのですが、ライトノベルと普通の小説との違い、「ライトノベルらしさ」というのはどの辺りになるんでしょう?

大森氏:ライトノベルは、大塚英志氏が提唱した「キャラクター小説」説というのが一般的に言われてるんです。ストーリーとか描写とか文章とかよりも、とにかくどんなキャラなのかというのが大事なんですよ。そのキャラクターが小説的なリアリズムよりも、どちらかというとアニメキャラに近い、「アニメ的なリアリズム」で成立している、というのが特徴ですね。

 だから、割と現実的ではありえないような、例えば「うる星やつら」のラムだとか、「めぞん一刻」の音無響子さんだとかが、小説の中に普通にいるのがライトノベルの基本と言えますね。

ASCII.jp:30代で始めるラノベ生活! まずはコレを読め! (1/3)

この時点ですでに大塚英志の「キャラクター小説」論が独り歩きしていたことがよくわかりますね。「ストーリーよりも文章よりもどんなキャラかということが大事」だなんて随分と遠いところまで来てしまったなという感じです。

そして、ここでの「マンガ的」というのも、やはり大塚英志が言っているような小難しい意味ではなく、単なる「非現実的な誇張されたキャラクター」という意味でしかないようです。

というわけで

こうやって見ていくと、この「キャラクター小説」という言葉はもともとの用法から掛け離れて、

  • ライトノベルはキャラクター小説である
  • だからキャラクターを魅力的にしなければならない
  • 魅力的なキャラクターとは非現実的な誇張されたキャラクターのことである

みたいなツギハギされて何重にも歪んだ創作論と化してません?ってことなんですよ。

これならまだ「キャラクター商品としての小説」という意味で固定化されたほうがマシな気がしますよ。先ほども書きましたけど「キャラクターが魅力的な小説」だなんて何も言っていないに等しいのだから、もう「キャラクター小説」なんて言葉は使わなくていいと思うんですよね。やめちゃいましょうよ。ね。