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ほんと人によって違うよなって思う「読書スタイル」

文章から映像を想像する? しない?

文章から映像を想像するかどうかって、本当に人によって違うんですよね。細部にいたるまで想像してそれを映画みたいに動かしながら読んでいるという人もいますし、動きはしないけどキャラの容姿や背景を想像しながら読んでいるという人も、逆にほとんど映像なんか思い浮かべないという人もいます。先日も、読書中に台詞を脳内再生するかどうか、とかで話題になっていましたね。あれは、心の中で文章を音読しているかどうかも関わってそうですが。

何度か書いていることですが、私は「ほとんど想像しない」派です。断片的かつ漠然としたイメージを思い浮かべたりはしますが、少なくとも「作品の記述どおりに映像を構築していく」ような読み方はしていません。心の中でも黙読派ですし。想像する暇もなく次へ次へと読み進めている気がします。というか、読書中はちょっと無意識に片足を突っ込んでいる感じで、自分が何を考えて読んでいるかって分からないですね。

読者の想像か? 作者の意図か?

「小説は想像の余地があるから面白い」という意見があります。「アニメや映画みたいに全てが映像化されているとつまらない」と。ラノベの挿絵なんかも「想像の幅を狭めるから」ということで否定的な方がいますよね。

一方、私は「自分の想像力よりも作家の想像力のほうが優れているんだからそれを見せてほしい」派です。もしも「理想の小説」というものが存在するなら、それは「完璧に作者の意図通りに読者の心理が操られる小説」なんじゃないかなあと思います。

「結末をあえて描かずに読者の解釈に委ねる」みたいな手法も、個人的にはわりと否定的です。そこは責任を持ってちゃんと結末を決めてくれ、と思います。あなたが最高のクリエイターであるなら、あなたが決める結末が最高のはずなんだよ。というのは、まあ「べき」論であって、現実に押し付けるつもりはありませんけどね。

主人公に自分を重ねる? 重ねない?

エンタメ分析では「読者と主人公を同一視する」ような論調をよく見かけます。異世界が舞台の作品が流行れば「現実から逃避して異世界へ行きたいんだろう」と言い、現実が舞台の作品が流行れば「未知の世界で冒険するのが嫌で現実に安住したいんだろう」と言うような。これは、言ってしまえば「小説とは読者が別人になりきるためのシミュレーターである」という視点なんだと思います。

でも、たとえば自分が阪神タイガースを応援しているとします。阪神が勝てば嬉しいし、負ければ気落ちします。それは一種の「感情移入」ではあるんでしょうけど、じゃあ「プロ野球選手になりたいか」「阪神に入団したいか」と言えば、ぜんぜんそんなことはないわけです。自分と出身地が同じ選手がいれば「共感」して応援することもあるでしょうが、それは「その選手になりたい」という意味では全くありません。もちろん、阪神入団を目指す阪神ファンの野球少年もたくさんいるでしょうけど。

読書に話を戻すなら、「自分と主人公を同一視して読む人」もいるけど、「観客として楽しむ人」もいるんですよ、ということでしょうか。

最高がいい? 毎日がいい?

これはあんまり上手く言語化できないんですが。なんて言えばいいんですかね。

たとえば、一口に「ラーメン好き」と言っても、「最高のラーメンを食べたい人」と「毎日ラーメンを食べたい人」の二種類があると思うんですよ。

後者の人にとっては、あくまでラーメンを食べ続けることが目的なので、美味しさは一定以上あるだけでいい。それよりも一日三食きちんと欠かさないことが重要だ。それじゃあ何を食べよう。最近はあの店にハマって一週間くらい通い詰めてるんだよね。でもそろそろ飽きてきたから今日は別の店にしようか。みたいな。何の話か分からなくなってきたなこれ。

「小説家になろう」の作品群が、いくつかのテンプレートをもとに量産されているということは、(「それ以外の作品もたくさんある」というエクスキューズ付きで)事実だと思うんですが、そこで「どうして似たような作品を読むんだ」「アマチュアなんて下手くそばかりだろ」「こっちの有名作家の最高傑作を読んでみろよ」と言う人がいるんですね。

そこの食い違いっていうのは、「最高の作品を読みたい人」と「毎日読み続けたい人」の差に起因するんじゃないかなあと思うのです。